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自転車のチェーンにあたる古典の常識①~『大鏡』から
高校生の古文の勉強を自転車にたとえると、前後の車輪は「文章」であり、「文法」がペダル、そして「古典の常識」が、チェーンのようなものになります。このうちペダルにあたる文法については、すでにある程度ご紹介済みですので、今回から新しく古典の常識についての連載を、はじめたいと思います(他のシリーズ同様、不定期連載ということでご了承下さい)。
まず、もっとも重要なことですが、「古典の常識」は、現在のわれわれの「常識」とは異なるということを、知って欲しいと思います。便覧や問題集にまとめられているような「知識を覚えることが主」である内容は省きますので、そのつもりでお読み下さい。
『大鏡』の冒頭は、「雲林院の菩提講」ではじまります。三十歳くらいの侍が、声高に話すたいそうな老人二人の話に興味を持ち(そこにいる老人は、夫人一人を入れて三人)、そこから話が展開して行くのですが、年長の大宅世継(おおやけのよつぎ)は百九十歳、若いとされる夏山繁樹(なつやまのしげき)も百八十歳であると、その素性が語られます。
ここで「そんなのあり得ない」「馬鹿馬鹿しい」と思って目をそむけてしまっては、古典を味わうことはできません。文学、とくに古典では、大胆な設定や、架空の人物の大活躍ということが、よくあります。また複数の作者によって書き継がれたと考えられるものもあるのです。
『大鏡』では、また「憎しみ」の強さとか(憎悪のあまりに死んだ人の握りしめた指が手の甲を突き抜けた)、おそろしい陰謀(年若い花山天皇を出家させてしまう企み)なども語られます。現代の常識にとらわれず、柔軟に物語の内容を受けとめることで、ゆたかな古典の世界への理解が広がり、同時に古典の勉強が「楽しく」なります。
引きつづき、「自転車のチェーンにあたる古典の常識」についてお話しして行きます。ご期待下さい。