高校生の現代文テスト対策 森鷗外『舞姫』④エリスの愛と相沢の「友情」

 エリスの家で暮らすようになってしばらく経った、明治二十一年冬。それまで「エリスと余とはいつよりとはなしに、あるかなきかの収入を合はせて、憂きがなかにも楽しき月日を送りぬ。」(エリスと私はいつともなく、それぞれのあるかないかわからぬほどのわずかな収入を足し合って、心労の多い中にも楽しい日々を過ごした。)という二人の暮らしに、大きな変化が訪れます。

 兆候は、まずエリスが身ごもったことでした。「エリスは二、三日前の夜、舞台にて卒倒しつとて、人に助けられて帰り来しが、それより心地悪しとて休み、物食ふごとに吐くを、悪阻(つはり)といふものならんと初めて心づきしは母なりき。ああ、さらぬだにおぼつかなきは我が身の行く末なるに、もしまことなりせばいかにせまし。」(エリスは二、三日前の夜、舞台で卒倒し、人に助けられて帰って来たが、それから気持ちが悪いと言って舞台を休み、食事のたびに吐いてしまうのを、悪阻ではないかと最初に気づいたのはエリスの母だった。ああ、そうでなくとも先行きの見通しの立たない自分の将来であるのに、もし本当だったとしたら、いったいどうすればよいのだろう。)

 本来の公職を失い、エリスとの情愛からベルリンにとどまっているものの、日本に帰るあても、ドイツで身を立てる望みもない豊太郎には、エリスとの間に子どもができたからといって、それを喜ぶ気持ちのゆとりはありません。不確かな身分とわずかな収入では、妻子と妻の母を養っていく見通しさえつかないのです。

 そこへ、豊太郎の現在の勤めを見つけてくれた友人の相沢から、手紙が届きます。彼が秘書官として仕える天方大臣がベルリンに来ており、豊太郎に会いたいというのです。相沢は、内々豊太郎の名誉と地位の回復を、大臣にはかる心づもりを持っています。

 この時の、エリスの豊太郎に対する心配りが、『舞姫』の作品中、大きな読みどころです。

 「かはゆき独り子を出だしやる母もかくは心を用ゐじ。大臣にまみえもやせんと思へばならん、エリスは病をつとめて起ち、上襦袢もきはめて白きを選び、丁寧にしまひおきしゲエロックといふ二列ボタンの服を出だして着せ、襟飾りさへ余がために手づから結びつ。『これにて見苦しとはたれもえ言はじ。我が鏡に向きて見たまへ。なにゆゑにかく不興なる面持ちを見せたまふか。我ももろともに行かまほしきを。』少し容(かたち)を改めて、『否、かく衣を改めたまふを見れば、なにとなく我が豊太郎の君とは見えず。』また少し考へて、『よしや富貴になりたまふ日はありとも、我をば見捨てたまはじ。我が病は母ののたまふごとくならずとも。』
 
 (かわいい一人息子を送り出す母でさえ、これほどまでに気を配ることはしないだろう。大臣にお会いするかも知れないと思ったからだろうか、エリスは病を押して立ち上がり、真っ白なワイシャツを選び、大事にしまっておいたフロックコートを出して着せ、私のためにネクタイをみずからの手で結んでくれた。そして言う。「これでみっともないなんて、だれにも言わせないわ。私の鏡で見てごらんなさい。どうしてそんなにむずかしい顔をなさっているの。私も一緒についていきたいくらいの気持ちなのに。」そして少し面持ちを改め、「いいえ、こうしてきちんと身なりを整えなさったところを見ると、何となく私の豊太郎さんじゃないみたいだわ。」また少し考えて、「もし出世なさってお金持ちになったとしても、決して私をお見捨てになることはないでしょうね。たとえお母さんが言われるように、今具合の悪いのが悪阻じゃなかったとしても。)

 このエリスのひたむきな愛に対し、どのような結果がもたらされたかは、すでにご存じの方が多いでしょう。あとで正気を失ってしまったエリスの描写だけでなく、豊太郎がはじめに天方大臣と相沢に呼ばれた時、こんなにもかいがいしく豊太郎の世話をし、のちに来る不幸を予感したかのような言葉と、自分には豊太郎しかいないのだという切ない女心を見せているエリスの姿を、ぜひしっかり押さえてほしいと思います。

 いっぽう、「相沢謙吉がごとき良友は世にまた得がたかるべし」(相沢謙吉のような良い友は、この世で望んでもなかなか得られるものではないだろう)とされた相沢ですが、このあと大臣をたずねた豊太郎に対し、おおむね次のようなことを言っています(要約)。

 (豊太郎が讒言(ざんげん)で陥れられ、公職を失った点については同情的ながら)、これまでの一連のことは、生来の気弱さから生じたことだから、いまさらどうこう言うつもりはない。だが、学識も才能をも備えた君が、いつまでも一人の少女の情に引きずられて、あてのない生活をするべきではない。今は正しい道に戻るため、まず大臣に能力を示して、その信用を得よ。いっぽう例の少女の方は、いくら本人は真剣で、深い中であっても、そもそもどういう人物かを知った上での恋ではないのだから、思い切って関係を断つべきだ。

 ここで相沢は、真剣に豊太郎の将来、身の上のことを思っています。ただその視界の中に、エリスは入っていません。現代ならば、エリスの身柄もひっくるめて、豊太郎の身が立つように、という考え方もあるでしょう。しかし相沢も豊太郎も、官費で留学をするエリートであり、その身辺は、きれいでなければいけないのです。現代風に言うならば、スキャンダルはご法度、というところでしょう。

 次回、この『舞姫』も、まとめに入りますが、ここまでの流れを、一度まとめておきます。

・豊太郎はものすごい秀才で超エリートだが、生来、気の弱いところがあり、特に年長者や立場が上の人から強く望まれると、ただ受け入れてしまうところがある。
・官費で留学し、留学先で公職を失った豊太郎には、公職の道に復帰して、日本へ帰る以外に、身を立てるすべはない(ベルリンでエリスと暮らしていても、明るい将来はない)。
・そんな豊太郎を、エリスはいちずに愛しており、また豊太郎の成功を、だれよりも祈っている(立派になった豊太郎に、妻にしてもらうことを夢見ている)。
・相沢が道をつけてくれる前途(公職への復帰、日本への帰国)には、エリスを伴うという選択肢は、含まれていない。

 そして豊太郎は、これらのことすべてを内々わかっていながら、エリスにも、相沢にも、また自分自身に対しても、己がどうするべきか、きちんと考えを決めることなく、このあとの流れに身をまかせるままで、エリスとの結末を迎えてしまうのです。
                                     つづく

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