松尾芭蕉『おくのほそ道』について-②「平泉」

 さて、実際に芭蕉が訪れた土地、そしてその文章の中で、人気のベスト3と言えるのが、「漂泊の思ひ」でも触れられている松島と、この平泉、山寺といったところです。

 「平泉」でのポイントは、まず章の冒頭「三代の栄耀一睡のうちにして・・・」で語られる、「三代」です。古文と言えども、文章を読むときに、必ずすべての背景を知っていなければならないわけではありません。

 とはいえ、この文章では、藤原三代の栄華(栄えかがやくこと)と、清衡・基衡・秀衡の存在は、きちんとおさえる必要があります。今までよく知らなかったとしたら、ここで学べばよいのです。

 また、源義経についても同様です。義経は、平治の乱で父が敗死したあと、はじめは鞍馬寺で育てられますが、のちに平泉の藤原秀衡を頼り、頼朝の挙兵に際しては秀衡から援助を受けて、頼朝のもとへ駆けつけます。

 やがて木曽義仲を破り、平氏を滅ぼしたあと、頼朝と義経は不仲となり、義経は追われる身となってしまいます。そしてふたたび秀衡の庇護(ひご)を受けるのですが、このことからも、三代目の秀衡まで、いかに奥州藤原氏の力が強かったかということがわかります。京の都(滅ぶ前の平氏や後白河法皇)、鎌倉(頼朝)と並び立つほどの財力、軍事力を持っていたのが、藤原秀衡だったのです。

 しかし秀衡の死後、後を継いだ泰衡は、頼朝の圧力に屈して、義経主従を攻め滅ぼします。この時のことを思って芭蕉が書いているのが、「平泉」の章の白眉である、次の部分です。

 「さても義臣すぐつてこの城にこもり、功名一時の草むらとなる。『国破れて山河あり、城春にして草青みたり』と笠打ち敷きて、時のうつるまで涙を落としはべりぬ。

 夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡 」
 (大意)ああ、それにしても、選りすぐった忠義の家臣たちがこの城にこもって、命の限りに奮戦したが、その忠臣たちの功績も名声も、(奥州藤原氏の平泉そのものと同じように)一時の夢と消えてしまい、むなしく草むらだけが広がっている。「国は戦乱に荒れ果てて山や川だけが変わらぬ姿を見せており、荒廃した城下に春が訪れると、草木が青々と茂るばかりだ」という詩の通りだと感じ入り、道中笠を草に敷いて腰を下ろし、時を忘れて涙をこぼしたものでありました。

 「夏草や・・・」の句とあわせて記されている曾良の句「卯の花に兼房見ゆる白毛かな」は、忠臣たちのなかでも高齢だった増尾十郎兼房の奮戦する姿を、白い卯の花から連想した意と言われています。

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