「風景 純銀もざいく」(山村暮鳥)の鑑賞と学習①

風景 純銀もざいく     山村暮鳥

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしゃべり
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな。

 11人(当初の雑誌掲載時は12人)の詩人との交流や思いを綴った室生犀星の『我が愛する詩人の伝記』山村暮鳥の項には、この詩に関して、次のような記述がみられます。
<この「風景」は三章二十七行に亙る詩であるが、各章行末にある一行だけが違っている外は、いちめんのなのはなという同じ行列であって、これを初めて読んだ時は遊び過ぎているようで、素直に読んで味わう気がなかった。原稿紙のうえのいたずらがそうさせたのだろうと思っていたが、暮鳥逝いて三十五年後の私の今日の机のうえでは、その菜の花の危険を冒した表現は、いまは美しく野の花が盛りこぼれていて、牧師をしていたことのある山村暮鳥が、この一面菜の花の中を歩いているような気が、するのである。>

 また一般に、「いちめんのなのはな」を繰り返す詩だ、というとらえ方も、されていましょう。それゆえ、とらえどころのない詩であるというふうに、感じる方もおられるのではないでしょうか。

 しかし、詩には、あるいは言葉には、「手がかり」があります。この詩の場合、各連の八行目、すなわち「かすかなるむぎぶえ」「ひばりのおしゃべり」「やめるはひるのつき」という屈折の部分を、どのように読みとるか、それが手がかりであり、読解の妙味を持つ部分であります。

 言問学舎では、すこしこの各連の八行目について考えたあと、生徒それぞれに、どの連がもっとも好きかを決めさせ、その理由を文章で書かせる、という授業を行ないます。一人一人の生徒が何を感じ、それをどのように展開させるか、非常に興味深く、また生徒の思考力、国語力を鍛える良い時間になっていることを、毎年実感しています。

 そして第三連の「やめるはひるのつき(病めるは昼の月)」についての考察にも、楽しいものがあります。いろいろな意見が出ますが、大別すると、次の2点に集約されるでしょう。

①昼間は太陽の光が強いので、月は見える位置にあっても、姿を隠している。そのことを、「病める」と表現している。

②ほの白く、半分透き通ったように見える「昼の月」が、病者の顔のように見える。

 ほかにも子どもたちは、自由にさまざまな意見を出します。生徒たちの了解を取りましたら、後日生徒の書いた文章を、紹介させていただく計画です。今しばらくお待ち下さい。

 また、「風景 純銀もざいく」の朗読を、YouTubeにアップしました。参考になれば幸いです。

風景 純銀もざいく https://www.youtube.com/watch?v=VRE2vorW8y4&feature


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