海底に眼のなき魚の・・・若山牧水の恋と旅と歌④

 海底(うなぞこ)に眼のなき魚の棲むといふ眼の無き魚の戀しかりけり

 第2回、3回でご紹介した「幾山河・・・」「白鳥は・・・」ほど広く知られている作ではありませんが、牧水ファンにとっては見落とすことのできない、第四歌集『路上』の巻頭歌です。

 当時の牧水の心境を知るのには、『路上』の「自序」を読むのが一番です。一部を引きます。

 「(この歌集の作品約五百首が一年間の自らの生活の陰影である、と述べたことにつづけ)透徹せざる著者の生きやうは、その陰影の上に同じく痛ましき動揺と朦朧とを投げている。あての無い悔恨は、これら自身の作品に對する(対する)時、ことに烈しく著者の心を刺す。我等、眞に生きざる可からざるを、また繰返して思ふ。」

 第三歌集『別離』は、そのタイトルの通り青春のすべてをかけた恋人小枝子との別れの時期にあたるものでしたが、『路上』においては、小枝子との関係はもはや望みのない、「あてのない悔恨」となっており、牧水に「痛ましき動揺と朦朧」を投げかけるものであることがわかります。おそらく牧水は、小枝子の面影を振り払い、振り払いつつもなお恋い慕い、飲んでも飲んでも飲み尽くせない苦い酒の酔いに、もろとも沈んで行ったのでしょう。

 そして、「目の無き魚」を恋う、ということは、「眼があるからこそ小枝子の顔ばせが浮かんで来てしまう。いっそ深海に棲むという、その名も知らぬ、眼のない魚になってしまえたら、どんなに楽だろう」という気持ちだったのだと思われます。「あての無い悔恨」の行きついた先が、「眼の無き魚」を恋い慕う心境だったのです。

 しかし牧水は、「眞に生きざる可から」ず、という強い生への意思を、手放しませんでした。『路上』につづく『死か藝術か』『みなかみ』の期間、激しい苦悩、苦闘を作品の激越な破調の上にも見せながら、牧水は旅をし、歌を詠んで、「眞の生き」をめざす道へと、歩みを重ねて行きます。

 私は卒業論文で特にこの歌を取り上げ、「牧水は泥酔して一夜を明かした道の上で、朦朧とした酔眼に小枝子の面影を見て、『路上』というタイトルを着想したのではないか」と書きました。若書きではありますが、今思い返しても、それは当たらずと言えども遠からず、なのではないかと考えています。

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