中島敦の『山月記』読解の重要ポイントはここ!

現在、ちょうど各高校で期末テストの時期ですが、高校2年生の現代文では、『山月記』が範囲になっている学校が多いかと思います。中島敦の名文で、漢語・漢文調の文章を、難解と感じておられる人も多いのではないでしょうか。

 小説を読むということは、細部の表現(ディテール)や、文章、言葉のすばらしさを味わうことに、多くその妙味があります。

 いっぽうで、特に高校生が「内容理解」を中心に読む時は、その内容の特に重要な「ヤマ場」をつかむことが求められます。そうした読書体験を重ねることで、文章の読み方や、この作品の場合では人間の心理の奥深さなどを学ぶことができるからです。

 では、ずばりおたずねします。『山月記』でもっとも重要なポイントは、どこですか?

 それは、「なぜ李徴は虎になったのか」ということであり、李徴をそうした運命に導いた彼自身の性情をあらわした表現を二つ、抜き出しなさい、ということです。

 答えは、「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」です。

 そしてもう一つ、虎である李徴が袁傪に最後の別れを告げる直前、袁傪に妻子の面倒を見てくれるよう頼み、「本当は、まず、このことのほうを先にお願いすべきだったのだ、おれが人間だったなら。(以下略)」と自白する、ここの部分で、李徴の自省と、しかしどうにもならない激しい性情(だったこと)との同居、矛盾を理解できれば、この小説の一番の骨格は、読みとれたということになります。

 なお、「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」についてですが、そのくだりの言葉をすべて等式でつないで整理して行くような考え方をすると、混乱し、行きづまることもあるかと思います。この二つは、まったく別のものではなく、双頭の竜のように、ひとつの大本の部分(李徴の魂)から別れたものと考えられるからです。

 したがって、これを理解するには、「己の珠にあらざることを惧れるがゆえに、あえて刻苦して磨こうともせず、また、己の珠なるべきを半ば信ずるがゆえに、碌々として瓦に伍することもできなかった」という李徴の自白を、かみくだいてみるのが良いでしょう。

 己=李徴が「珠」でないということは、彼自身が思っているようにすぐれた詩才ではない、ということです。それを自分が知ってしまうことを「惧れる」ため、進んで詩の先生についたり、仲間と批評し合って切磋琢磨することをしなかったのです。これが「臆病」ですね。

 そして、それでも「自分は世間の俗物と違って、ものすごい詩人なのだ」という「自尊心」が、生活のために俗物の間で勤めつづけることをさせなかった。これが「尊大」です。

 「羞恥心」は、こうしてみると詩人たちの交わりに加われなかったあたりの「恥ずかしさ」を指すことになりそうですが、無理に白黒をつける必要はないでしょう。こうした性情が絡まり合っているのが李徴という「人間」であり、それを象徴的に名づけたのが「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」なのではないでしょうか。

 先にも述べた通り、「読みどころ」はたくさんあります。もっとも重要な骨格をお話ししたこのあたりで、今日の授業は終わりにしたいと思います。

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